
音楽史でもっとも難しいといわれるアリアがあるから、マリア・カラスのようなワールドクラスのシンガーしか演じられないということで、公演回数は少ない。今回は、ニューヨークメトロポリタンオペラで長年活躍した世界的なソプラノのシン・ヨンオク(申英玉)氏を迎え、オペラファンには有難いチャンスだ。
そもそも韓国はアジア屈指の「声楽家輩出国」と言われ、声楽大国と言える存在だ。韓民族はクラシックオペラの元祖であるイタリア人と似ている歌唱力のDNAを持っているではないかと思うほど、声質は東洋人離れで、逆に欧米人に似ている。それで欧米を拠点に活動する韓国人オペラ歌手の数は既に70人を越えたのはおかしくない。
ソウル赴任中の一番の楽しみは、毎年少なくとも十回ぐらいクラシックオペラの公演を鑑賞できることだ。欧米の名劇場からの引越し公演もあるし、地元の韓国国立オペラや、ソウルメトロポリタンオペラによる公演もある。欧米以外、これほど年中素晴らしいオペラを楽しめる赴任先はないのではないか。
ところで、韓国のクラシックオペラの醍醐味は、声楽のレベルの高さだけではない。音楽の演奏も、舞台装置も凝っていることだ。
今回の「ルチア」の場合、第一幕に出てきたスコットランド領主エンリーコの荘園のシーンに、本物の馬と猟犬が舞台に登場し、観客を驚かせた。しかも、ただの「本物」だけではなく、物語に合わせて、馬はクリーブランドベイ、十数匹の猟犬はイングリッシュ・フォックス・ハンター。調教師ではない合唱団員と共に舞台に上がった。
もっと不思議に思うことは、舞台のまぶしいライトに浴びられ、またオーケストラの演奏や合唱の歌声も響いた環境で、馬も犬も優れた役者のように静かに立っていた。万が一、この動物たちは観客席まで走り出したり、あるいは舞台で吠えたり、おしっこをしたらどうするかと私はついに心配し始めた。
名馬と名犬をどこからスカウトしたか、どれほどトレーニングをすれば役者のように舞台に立つことができるかと、今度関係者に聞いてみたくなった。
とにかく、いい舞台を作るために、この手あの手も尽くす韓国のクラシックオペラは、「本物志向」が強い。
去る二月に、国立オペラによるモーツァルトの『イドメネオ』(Idomeneo)の公演があった。
船が難破したあと、海岸でイドメネオは、救ってくれた海神ネプチューンへ誓うシーンがあった。その時、舞台中央に海とビーチの代わりに、水溜りを作り、イドメネオを扮する歌手は、海(水溜り)の中に立ったまま歌った。
ここまで本物を使えばいいが、二年ほど前、同じ劇場で本物の「火」が使われたことで、火事が発生したことはまだ記憶に新しい。
2007年12月12日、オペラ「ラ・ボエーム」公演が始まって、15分も経っていない時の出来事だった。
主役の詩人ロドルフォが火の気の無い部屋で仕事をしている。寒さに耐えかねて売れ残りの原稿を暖炉に入れて燃やすシーン。普段、暖炉のセットに赤いライトを当てたらいいが、「本物」を徹底追求する韓国ではそういかない。ロドルフォ役のテノールは本物のライターを出し、暖炉に火をつけた。
すると、炎が間の無く大きくなり、やがてセットの暖炉に、そして舞台上の布に移った。
その場に居合わせた私は最初、演出ではないかと思ったが、「ラ・ボエーム」には火事のことは一切ないのではないかと戸惑った。
ついにカーテンや照明などの舞台施設が燃え、黒い煙が広がり、劇場のスタッフに見える男性は消火器を持って舞台に登り、歌手たちは慌てて去っていった。
本当の火事が発生したとみんなは意識し始め、避難放送を待たず、非常口まで逃げ出した。
オペラ鑑賞で火事に巻き込まれるなんで、想像したこともない。幸い、大きな混乱がなく、観客と出演陣は無事に避難した。
のちの報道によれば、消防車32台と消防署員130人が出動し、火は23分後に消し止められた。二十人の出演者は軽い怪我をしたが、人命の被害はなかった。
オペラに詳しい方によれば、 「ラ・ボエーム」にはろうそくの火や煖炉の場面が頻繁に出てくるため、外国では公演会場に消防車を待機させるなど火災対策に万全を期しているというが、なぜか韓国ではそうしなかったようだ。
火事後、オペラハウスは修繕工事のため、一年余りも公演が中止された。オペラファンにとってはこれ以上悲しいことはない。昨年の二月、やっと工事が終わり、公演も再開されたが、席につく前に、非常口をきちんと確認する習慣を身につけたのは私だけではないだろう。
来る六月に、「アイーダ」の公演が予定されているが、凱旋の場面をどういう風に演出するか、楽しみにしている。ほかの国では、本物の虎やライオンも出場したという話を聞いたことがある。猛獣たちは気が狂って、出演者を怪我させたらどうしよう。そこまで「本物」にこだわる必要はあるのか。私はサーカスのためではなく、オペラのためにきたのよ、と製作側に伝えたい。
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